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残響的薫香 Vol.11「あなたが待っていてよかったな」@緑が丘温泉 FLOAT MAGAZINE

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残響的薫香
-まるであの時の香りのような-
by FLOAT MAGAZINE

「そこに滲みついてる空気」ってある。
意図的でないし、自然にあるだなんて片づけたくない。
それらが五感を通り過ぎる時、僕たちは強く「思う」に悦ぶ。
味わい、聴き入り、そそられながら「思う」をくゆらす。
“言葉”から弾かれ漂っているそれらをつかまえてみたい。
酔いきってしまう手前まで。

文/野呂瀬 亮

 アラームが鳴るほんの数分前に目覚めた朝だった。テーブルには氷の溶けきったグラスと開いたままのパソコン。整髪料を落としそこねたペリペリの後頭部を掻き回しながら、唐突に結末を迎えた夢のあらすじを辿る。確か原稿を待たせてしまっているお客さんに頭を下げていたような。リモコンの温度表示は28℃。からからに張り付いた喉壁を僅かな唾で湿しながら、消し忘れてしまった空調の電源を落とす。

 「お風呂入らなきゃ」。お門違いに鳴り出すアラームにびくっと肩を縮めながら、いそいそと晩酌の残り香を洗い流す。蛇口から真っ直ぐに落ちる今朝の水は刺すように冷たい…。温泉に行こう。忙しない電子音を止め、タオルと使い捨てのカミソリを鞄に滑り込ませたのだった。

 思えばここのところお風呂というものを蔑ろにしていた。多くの“やらなければならないこと”がある中で、どうしたって自分に対して割く時間の優先度は下がるもの。すっかり朝方のシャワーで寝ぼけた頭を叩き起こすサイクルが常となっている。

 そろそろ布団シーツ洗わないとな。片手でハンドルを、もう片手でつっぱる首肩を握りながら、アルプス通りを北上していく。久しぶりに走る道、久しぶりにスローな朝。そして、たった今初めてたどり着いた「緑が丘温泉」のゆれる暖簾が、少しだけ新鮮な1日の始まりを予感させるのだった。

わかりますか?銭湯と言えばこれです

「いらっしゃいませ〜」

 自動ドアが開くと番台さんらしいご婦人の声が聞こえてくる。ガランと音を立てるロッカーへ靴を収め受付に向かうと、声の主と常連さんらしい紳士が和やかに談笑していた。「えーっと…」新顔の少し孫ついた様子を悟ってか、恐らく普段より少し丁寧に案内をしてくれる番台さん。青い番号札のついたロッカーキーを受け取り、脱衣所へ向かう。

冬でも扇風機は必要なんです

 「ドライヤーをご希望の方は番台に申し付け下さい」。すっかり無防備な姿になってしまってから、達筆の貼り紙に気付く脱衣所。何にしても初めてというのはこういったハプニングは付き物だ。大丈夫、上がってから借りに行けばいい。ところで先程鍵をもらったが、先客の皆さんはほとんどロッカーを使わず、棚のカゴに荷物を置いているようだ。プライバシー、セキュリティ、そんなせせこましいこと言っていたら男が廃るよな。とは言えまだまだ新参者、貴重品もあるので施錠はしておこう…。ガラス戸を開け、いよいよお待ちかねのお風呂へ。

 「カコン」と洗面器の音がこだまする浴場は午前中ということもあり、お客さんは比較的少なめ。壁面には茶色いタイルが張り巡らされており、向かって右側に2種類の温泉、左側に洗い場スペースが広がる。広すぎず狭すぎず、なんとも落ち着く空間だ。

黒いの押して出てくるタイプの蛇口すき

 重ねられた椅子と洗面器を手に取りシャワーの前に腰掛けると、カランのハンドルがひとつしかないことに気づく。後から聞いたのだが、38.6℃と程よい温度の源泉がそのままシャワーに引かれているため、加温加水が不要なのだと言う。なんとも贅沢なシャワー…。早速勢いよくハンドルを回し、源泉で身体を清めていく。このメガホンみたいな形のシャワーヘッド、フォルムも良いし使い込まれた使用感もかっこいい。

捻ればちょうどいい源泉シャワー

 初めての温泉に来る時はアメニティを持参するのが大人の嗜みだ。こうしたほとんどの「共同浴場」ではシャンプーなどが置かれていない場合が多い。だからこそ安い料金で入浴ができると言う訳だ。良心価格に感謝しながら、洗顔フォームで脇の下を洗う。どうしてボディソープだけ忘れてしまったのか…。最後の髭剃りも早々に、いよいよぶくぶくと泡が弾ける超音波風呂へ身体を浸していく。

まるでお母さんのお腹の中に戻ったかのような程よい温度

 「ああ、気持ちいい…」。思わず漏れた声が、知らぬ間に借し切りとなっていた場内に響く。少しとろみがある源泉は「ナトリウム・カルシウム・塩化物温泉」とのこと。確かに、唇に触れるとちょっとだけしょっぱい。しかし、こうしてゆっくりお風呂に入るのはいつぶりだろう。天窓から差し込む優しい陽の光を受けながら、強張っていた体の節々を解きほぐしていく。

個人的モストお気に入りポイント

 続いてピンと湯面が張った隣の浴槽へ。こちらは先程より少し高温で、しっかりと芯から身体が温まっていくのを感じる。誰もいない浴場で一人、温泉に身をあずけるひと時。今は少しだけ、締切や原稿のことは考えずにいよう。手でお湯を顔に馴染ませながら、久しぶりの緩やかな時間に浸っていく。

風呂上がりにはこれが相場と決まっとるんです

「は〜いありがとうございます〜」

 番台さんにドライヤーとロッカーキーを返し、定番のコーヒー牛乳を熱った身体に流し込む。年季の入った待合やロビーは、なんとも趣があって居心地がいい。いったい創業はいつなのだろう。

「先代の父が開業してから今年で60年になるんです」

 そう話すのは二代目番台の藤巻ひろみさん。創業は昭和39年(1964)、職業軍人として太平洋戦争に出征していた先代のお父さんが帰還後に夢だった温泉を掘り当て、この緑が丘温泉を開業させたのだと言う。

「戦後はまだ庶民の生活水準が低く、公営住宅などにはお風呂がないのが普通でしたね」。開業当時は甲府市内に約40件もの共同浴場があり、夜になると多くの人たちがタオル片手に町内を歩いていたのだそうだ。露天風呂を無料開放するなど、地域の人たちに良心的だった緑が丘温泉は多くの人で賑わい、1日に150人ほどのお客さんが訪れる日もあったのだと言う。平成6年(1994)になると、老朽化につき現在の建物を再建。新館となってからは今年で30年を迎える。

「ここに座っていて欲しい」そう思うんです

「お座敷や舞台を使って、よく宴会が開かれてましたね。あの時は賑やかでした」

 早朝から常連さん同士で集まっては、湯上がりに一杯やる「朝湯会」なんて寄り合いもあったのだそうだ。なんとも穏やかな当時の空気感が漂ってくるようなエピソード。そう言えば最近友達とも飲んでないな。当時から手伝いに通っていたと言うひろみさん。コロナ禍もあってか、ここ最近はお客さんの出入りも緩やかなのだと、少しだけ寂しげな表情で笑う。

「朝7時からお客さんが来るからここに寝泊まりしてるんですよ。いい加減身体もきつくなってきてますけどね」

 そんな言葉を漏らしながらも、お客さんと話をするひろみさんは生き生きとしている。こうして世間話をするのが楽しみで訪れる常連さんも多いのだとか。ただお風呂に入るのなら別に自宅でいいもんな。会いたい人がいるから、また来たくなる。こうした先代から受け継がれる番台さんの器量があったからこそ、愛され続ける60年間の歴史があるのだろう。

「儲けは無いけど、毎日来てくれる常連さんがいるからやめられないの(笑)」

 最後にひろみさんは優しく笑う。コーヒー牛乳の空瓶を戻す頃にはもう時刻はお昼前、ついつい時間を忘れて話し込んでしまった。まあ、たまにはこんな時間も必要だよな。

 「ありがとうございました〜」そんなひろみさんの声に見送られる、ちょっと遅めな一日の始まり。朝から降っていた小雨も上がり、暖かい光が緑色の暖簾を照らしていた。確かに儲けはあんまり無い。でも待ってくれている人がいるから、「ありがとう」と言ってくれる人がいるから…

今日も一日頑張りましょう。

あと、今夜はしっかりお風呂に入ろう。

ひろみさん、ありがとうございました。

緑が丘温泉

住所:山梨県甲府市緑が丘1-12-14
TEL:055-252-5484
営業:7:00~20:00(日曜を除き12:00〜14:00は休み)
定休:月、火曜

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