残響的薫香
-まるであの時の香りのような-
by FLOAT MAGAZINE
「そこに滲みついてる空気」ってある。
意図的でないし、自然にあるだなんて片づけたくない。
それらが五感を通り過ぎる時、僕たちは強く「思う」に悦ぶ。
味わい、聴き入り、そそられながら「思う」をくゆらす。
“言葉”から弾かれ漂っているそれらをつかまえてみたい。
酔いきってしまう手前まで。
文/野呂瀬 亮
ある打ち合わせからの帰り道。青春ごっこを今も続けながら旅の途中。北杜市小淵沢から甲府方面へ続く七里岩ラインには街灯が少なく、夜遅く走るには少し心細いものだった。しかし、ここのところ打ち合わせや交渉ごとが続いていたからだろうか。しんとした運転席でひとり、ライトに照らされる僅かな道筋を追っているのが心地よくもあった。見えるのは自分の目の前だけ。その先や背後に何があるかは分からないが、見えない方が幸せなこともある。
徐々に街頭や車通りも増え、両サイドに並ぶチェーン店の看板たちが夜闇を暴きはじめる。いつものよく見る町。そうしていつも通り、抱えている原稿の期限が頭をよぎる。重くなったまぶたを擦り始めた21時頃。車はぽつぽつとスナックの明かりが灯る甲府市貢川本町は南西銀座に差し掛かっていた。自宅まではあと数分だが、辿り着いてしまえば最後。原稿を進めることなく明朝を迎えることになるだろう。どうしよう、ビール飲みたい…、締め切りは近い…。
そんな時だった。黄色く煌々と光る「キング」に出会ったのは。
「出会った」といっても、この看板を初めて見かけたのは少し前のこと。「こんなところに喫茶店あったっけ?」と気にはなってはいたものの、それ以降なかなか入ることができないでいた。と言うのも、どうやら夜な夜な限られた時間帯にしかオープンしておらず、いざ行ってみるとシャッターが閉まっているということもしばしば。
ようやくである。“目に入ってしまった”ということは、そういうこと。今夜は少しここで原稿を進めさせてもらおう。「珈琲 キング」と書かれた黄色い看板の光と、窓から漏れ出すオレンジの明かりに誘われるように、その扉を開く。
「あ、いらっしゃいませ〜」
カウンターに立つママは少し驚いたような表情をしていた。無理もない、一見の若造がいきなりやってきたのだから。続けて「お好きな席へ」と丁重に案内を受ける。こういったお店の場合、いつもであればカウンター席を好んで選ぶが、今日は迷惑にならないようボックス席でノートパソコンを開かせてもらうことにする。
壁に備え付けられたランプや、ステンドグラスの間接照明が優しく照らすフロア。「レトロ」などとは一言では表せない、まるで、このお店を通り過ぎていった時間や様々な人たちの面影が染み付いているような店内だ。L字のカウンターには常連さんらしい紳士がひとり、コーヒーカップを傾けながらママと和やかに世間話を交わしている。
「ご注文は?」カラカラと氷の音を立てながらグラスとおしぼりがテーブルに運ばれてくる。卓上を見回していると「メニューはなくて、コーヒーだけなんです」と、少し遠慮がちに笑顔を見せるママ。上品でありながらなんとも一本気なギャップに好感を覚える。味の好みに合わせてコーヒーを淹れてくれるとのことだったが、まずはスタンダードをオーダーすることに。
カウンターからは、ガラガラという電動ミルの音とともに香ばしい豆の香りが漂ってくる。注文してから一杯一杯豆を挽いてくれる喫茶店、丁寧な仕事ぶりに期待が高まる。ママはあれこれと声をかけてくるわけでもなく、かといって常連さんと話す様子はお堅く隙がないという感じでもない。こういう心地よい距離感があるお店が好きだ。
心なしかキーボードを叩く音も軽やかになっていく。
「はい、お待たせしました」
ママの優しい声とともにコーヒーと小袋のお茶菓子が運ばれてくる。心地よい雰囲気も手助けしてすっかり集中してしまっていたが、時刻はもう21時半。ここで少し一息いれることにしよう。ゆらゆらと湯気が立つカップをゆっくり口元へ運ぶ。
「美味しい」と思わず小さく呟く。比較的深煎りであろうしっかりとした味わいながら、重い苦味はなく、後味はすっきりと香ばしい香りが余韻する。コーヒーに明るいわけではないのだけれど、きっとこれがいわゆる“喫茶店のコーヒー”。浅煎りの酸味が効いたコーヒーも美味しいけれど、自分はこういう味わいが大好きだ。
そしてまたコーヒーのお供に添えられたどこか懐かしいお茶菓子がいい。“しょっぱい”と“甘い”を行き来しながら、きりっとしたコーヒーで口の中をリセットする。これこれ、こういうのでいいんだよ。
静かで穏やかな深夜のコーヒーブレイクが、あれこれと絡まっていた頭と身体を解きほぐしていく。今日もお疲れさま。原稿もここまでにしてしまおう。
「自家焙煎の豆を使ってるんです。こう見えて結構お店も長いんですよ」
「有限会社キング珈琲」が設立されたのは終戦間も無く。戦地から帰還したママのお父さんが、山梨県内で初めてコーヒー豆の販売をスタートさせたのが始まりだという。後に自家焙煎に力を入れ始め、昭和58年(1983年)に自社の豆を使ったこの喫茶店をオープン。娘であるママがカウンターに立ち、今年で40周年を迎えるのだとか。オープン当初はコーヒーをはじめ、チーズトーストやナポリタンなどの食事メニューも提供していたのだそうだ。なにそれ美味しそう…。
「ママは調理師免許の資格も持ってるんだもんね!」と、快活なご婦人が会話にカットイン。20時から22時までと中々ディープでピンポイントな営業でありながらも、こうして仕事終わりのお客さんがふらっと訪れるのがこのお店の常。話を聞くと20代前半の頃から途切れず通い続けている常連さんなんだとか。年齢も仕事も違う、お互いを知り過ぎているわけではないからこそ距離が縮まる“大人のおともだち”。「なんでも話せる夜の社交場」そう話す先程の紳士も、童心に返ったように無邪気な笑顔を浮かべていた。
「お店に立ち始めてすぐは、お客さんがくると恥ずかしくて裏に隠れちゃうこともあったんですよ…」
「恥ずかしがり屋さん」そう茶化され、ママも照れ笑いを浮かべる。時折見せるおっちょこちょいな素振りが愛おしく、また一層フロアをふわりと和ませるのだった。空のカップで談笑する紳士と、おかわりをオーダーするご婦人。「お客さんを大切にするし、お客さんにも大切にしてもらっている」そんなママの言葉もあったが、なるほど、みんな彼女のファンなんだな。時計の針は閉店時間の22時を回っていた。最後の一口、そろそろ自分は帰ることにしよう。
「ありがとうございました。ぜひまた寄ってください」
帰り際、談笑の最中でもすっと居直ってお見送りをしてくれるママ。そう言えばお名前を聞いていなかったけど、わざわざ聞くことでもないよな。ママはママ、それでいい。
お店を出ると辺りは真っ暗。ただ黄色い看板がお店の前だけを照らしていた。遠くに見える朧げな目的地や、四方八方へ無数に伸びる脇見の先。そして、あの時言われた言葉の真意。ついそんなものにばかり目を凝らしてしまっていたけど、今目の前にあるものをじっくり見つめることが大切なのかもしれないな。感じることだけが全て、感じたことが全て。
ひとまず締切はすぐ目の前に迫っている。帰って原稿の続きを書こう。そしてまたまぶたが重くなってしまった夜は、この明かりを目標に、ここへ戻ってこよう。
こんな夜を探してた。
ママありがとう。また来ます。
キング珈琲 貢川店
住所:山梨県甲府市貢川本町1-7
TEL:055-284-0283
営業:20:00~22:00
定休:不定休
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