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宇多田ヒカル「traveling」歌詞解説 ~恋愛は実る手前が幸せ?~

COLUMN

名作と謳われる類の作品は、知名度に反比例するようにその価値や存在が見えづらくなっていくものだと、僕は感じることがある。
”知っているけれど、よく知らない”
そんなニュアンスに近いかもしれない。

それは作品の価値が長い時間の中で、摩耗し、劣化してくからではなく、むしろ時間をかけてその作品 が世の中で”公共物”のような扱いになっていくからじゃないかと思う。

たとえば信号機を見て「これがなかったら今日俺は安全にここまで来ることはできなかったんだよな…」と、いちいち感慨にふける人はいない。(もしいるならそれはそれでオモシロそうではある。)
とにかくこの世には、あって当たり前だけどスゴいものがたくさんある。
それと同じように、名作は名作であればあるほどその存在は肥大化し、世の中に浸透し続け、その結果、人はその存在を気にすることはなくなっていくのではないだろうか。
言葉の通り、空気のような扱いになっていく。
と、いったような諸々が僕の持論である。

日本に生まれて宇多田ヒカルの名を知らない人はなかなか珍しいのではないだろうか。 今や海外でも彼女の名前は広まりつつあり、言うまでもなくこの国を代表するシンガーソングライター である。
そんな彼女が鮮烈なデビューを果たしたのは1998年。”やたら天井が低い場所で歌う子”はその圧倒的過 ぎるソングライティングセンスを遺憾無く発揮し、1stアルバムは750万枚出荷された。音楽業界もお茶 の間もひっくり返ったそうな。

さて、本題の「traveling」は宇多田ヒカル9枚目のシングル。発売されたのはデビューからわずか3年後 の2001年。当時17歳。
「や、なんか実はアタシ人生たしか今5週目?とかで」なんて言われてたとしても「ですよね」としか言 えない。ブラッシュアップどころではない徳の積み方をしてきている。

この曲の素晴らしさはすでに多くの人々が徹底的に議論を重ね、研究され、分析され尽くしているので 今更僕がどうこう言うことは野暮だろう。
こと歌詞に関しても同じで、こちらも僕なんかが訳知り顔で語ることでもないとは思うのだが 冒頭で話した”知っているけれど、よく知らない。”という現象がこの曲には意外とあるんじゃないかと思 い、今回このtravelingの歌詞を取り上げてみようじゃないかと、そういういきさつなのである。

長い前置きにお付き合いありがとうございます。
それではさっそく冒頭のセクションから読んでいきましょう。

仕事にも精が出る
金曜の午後
タクシーもすぐつかまる(飛び乗る)
目指すは君

もう一度言うが当時17歳である。
僕が17の時は友だちと「au by KDDI」を誰が一番良い声で繰り出せるかという、今思えば地獄のよう に生産性のない遊びに全神経を注いでいた。
「エーユゥバァァイ、ケイディディディアアァァアイ!!」
「つ、つええー!(爆)」
あえて言うがクソである。でも当時はなんか死ぬほど楽しかった。

そんな中、我らがヒカルパイセンは
華の金曜日の高揚感をたった4行でさらりと表現してみせた。
ウソみたいだろ。会社行ってないんだぜ。これで…

タクシーもすぐつかまる(飛び乗る)

カッコを使うことでテンポの良さと「早く会いたい」という可愛らしさとが文字だけで伝わってくる。
これは発明だなと思う。

「どちらまで行かれます?」
ちょっとそこまで
「不景気で困ります(閉めます)
ドアに注意」

押韻の統一が気持ちいい。文章として自然かつリズミカル。
僕にとって良い歌詞だと思うものは、あくまで歌う事に念頭を置いて書かれているものが殆どだ。

そして「ちょっとそこまで」と、浮かれてはいるんだけれど、クールさを保ちたくてほんの少し背伸びしている、そんな主人公のキャラクターも読み取れそうな、ナイスな言葉選び。

不景気で困ります(閉めます)

今しがた仕事に精を出してきた主人公と、不景気を嘆く運転手。ただ恋愛のワクワクを描くだけじゃなく、その裏の生活の背景が透けて見える瞬間があるから、読み手はリアリティーを感じて共感出来る。

そして、このカッコの使い方はシビれますね。
運転手の事務的なセリフに使用することで、より機械的な、業務上の定型文のようなニュアンスが出せる。
加えて、このシーンでは蛇足となりうる言葉なのに、カッコで括ることで軽いユーモアに変換してしまうという、日本語への感性がめちゃくちゃ鋭いセクションだと思います。

風にまたぎ
月へ登り
僕の席は君の隣
ふいに我に返りクラリ
春の夜の夢のごとし

ここからBメロなのですが、個人的にtravelingの中でこのBメロの歌詞の効果がマジで天才だなと思います。

Aメロまでで描いていた現実世界との対比が効いている夢見心地なムード。
君を目的地としていたタクシーは月へ向かっていて、その君はいつの間にか主人公の隣にいる。
それは主人公の胸の高まりが見せた妄想であることが分かるのだが、その妄想の世界の美しさを表す一 文が『春の夜の夢のごとし』

高名な古典文学、祇園精舎のフレーズをあえて突然引っ張ってくることで、さっきまでいた現実世界をぶった斬り、君の事を考えている時間が持つ、雅で強烈な妄想パワーを描く…いや、このセンス、ヤバくないですか??

「登り」「隣」「クラリ」←天才「ごとし」
語尾もしっかりと押韻し、文学としても音楽としても完璧…

そして誰もが知るサビへと突入していきます。

Traveling 君を
Traveling 乗せて
アスファルトを照らすよ
Traveling どこへ
Traveling 行くの?
遠くなら何処へでも

アスファルトを照らすよ

“君がいれば未来は明るいぜ”
“君がいるから先の見えない未来も怖くない”
どちらとも受け取れるポジティブな一文。個人的には後者の解釈。前半の「不景気で困ります」もフリ として効いてくるし。

Traveling もっと
Traveling 揺らせ
壊したくなる衝動
Traveling もっと
Traveling 飛ばせ
急ぐことはないけど

壊したくなる衝動

やはりこれも主人公の暮らす現実世界の窮屈さ、退屈さを感じさせるフレーズではないだろうか。

そして「もっと」「飛ばせ」と、現実世界をさらに引き離そうとするも「急ぐことはないけど」と最後に少しだけブレーキ。
君との時間をもっとゆっくり楽しみたいからなのか、それとも…

ここからは2番

聞かせたい歌がある
エンドレスリピート
気持ちに拍車かかる
狙い通り

「結局ヒゲダン聞いちゃうわー。普通にプリテンダー良いよな」
「え、わかるわかる。えーなんかカラオケ行きたくなるねー」
「まじ?行っちゃう?」
のヤツだと僕は踏んでいる。
要するに恋愛あるあるを描写したパートだと思うのだが「狙い通り」というフレーズで、虎視眈々と恋愛ゲームの駆け引きを楽しんでいるムードが伝わってくるよう。

波とはしゃぎ雲を誘い
ついに僕は君に出会い
若さ故にすぐにチラリ
風の前の塵に同じ

さて、またしても天才Bメロパートなのですが
Aメロで現実パートを描きBメロで妄想パートと対比させる手法は同じなのだが、やはり宇多田はすごかった。

「波とはしゃぎ 雲を誘い」「ついに僕は君に出会い」と、再び少し抽象的で夢見心地な妄想世界。
そこから今度は「若さ故にすぐにチラリ」と、男のちょっぴりカッコ悪いあるあるを描くことで、ユー モラスながらも読者を現実世界に引き戻す一文を差し込み、ここでも現実と妄想を対比させている。
そして最後の「風の前の塵に同じ」…

衝撃のラスト。”知ってるけど、よく知らない”側だった頃の僕は、改めたてここを読んだ時マジで膝から崩れ落ちる思いでした。
『こ、こんな事言ってたの…?凄すぎる…』

ここで再び祇園精舎から引用してくる構成の美しさ。もはや隙が無さすぎてちょっと怖い。
魅力に抗えずついつい目がいってしまう情けない男の性分と、風に抗えず飛ばされてしまう塵の儚さを重ねるというアクロバット技。ウルトラC。
なんなんだこいつは。

ちなみに「波とはしゃぎ 雲を誘い」に関しては、うまく表現できる解釈が思いつかなかったのでスルー したのですが、簡単に調べてみたところ、どうやらこちらも祇園精舎からの引用なのではないかとのこと。
「風」「浪」「雲」「月」が祇園精舎に出てくるのでそれをそれぞれBメロに使ってみたのでは、とのこと。
こちらを参考にさせていただきました。https://peing.net/ja/q/0a635cc6-1d98-4831-b238- 703e927bdae2

そして2サビ。こちらもなかなかすごかった。

Traveling 胸を
Traveling 寄せて
いつもより目立っちゃおう
Traveling ここは
Traveling いやよ
目的地はまだだよ

なんと視点が女性側に入れ替わっている!
「胸を」「寄せて」「いつもより目立っちゃおう」と、開放的な雰囲気。彼女もまた抑圧された現実を生きているのかも…と匂わせる。

しかし「ここは」「いやよ」「目的地はまだだよ」と、セーラー服を脱がさないで理論を使って1サビと 同じくまた少しブレーキ。
どうやら両者とも現実世界に疲弊しつつも、そこからはみ出すことにどこか不安を抱いている印象。

Traveling 窓を
Traveling 下げて
何も恐くないモード
Traveling ここで
Traveling いいよ
全ては気分次第

「窓を」「下げて」車内に風が吹き込んでくる。
二人は今「風をまたぎ 月へ登」っていることを思い出し、再び「何も怖くないモード」に。そんな解釈も出来そう。
この曲は「風」が重要な要素として使われているのかもしれない。
最後には「ここで」「いいよ」「全ては気分次第」と、前向きとも投げやりとも取れるフレーズで締め括られる。
そしてCメロから、二人にブレーキをかける「不安」の正体について少しずつ近づいていく。

みんな躍り出す時間だ
待ちきれず今夜
隠れてた願いがうずきます
みんな盛り上がる時間だ
どうしてだろうか
少しだけ不安が残ります

「隠れてた願い」とは、これまでの流れから「壊したくなる衝動」「いつもより目立っちゃおう」といった、現実世界の抑圧からの開放だと解釈できる。
けれど「どうしてだろうか」「少しだけ不安が残ります」と、盛り上がりきれない自分を感じている。

そしてラスサビ。

Traveling 君を
Traveling 乗せて
アスファルトを照らすよ
Traveling どこに
Traveling いるの?
これからがいいところ

どこに いるの?

ここは色々な解釈が出来そう。
君がどこにいるのか分からないのは、君がいる目的地にまだ到着していないからなのか。
それとも、現実世界を振り切って「何も怖くないモード」だったはずの君が、不安に駆られたことで消えてしまっているからなのか…

これからがいいところ

【目的地である君がいる場所=いいところ】
もしくは
「アスファルトを照らすよ」≒”君がいるから先の見えない未来も怖くない”
つまり【先の見えない未来=いいところ】
とも考えられる。

そして締めくくり。これまで語られていた不安の正体が明らかになる。

Traveling もっと
Traveling 揺らせ
壊したくなる衝動
Traveling もっと
Traveling 飛ばせ
止まるのが怖い ちょっと

止まるのが怖い ちょっと

君を思う間は、恋愛のフィルターを通して開放的な自分になれる。退屈な仕事だって頑張れるし、月までドライブ出来そうなほどハイになれる。未来が怖くないと思える。そうやって、抑圧された現実世界から逃げ出すことができる。

けれどそれは、恋愛によってハイになれている間だけのものだと自覚している自分もいる。
つまり、目的地にたどり着いた時点(恋愛が成就した時点、あるいは恋の熱が冷めた時点)で再び現実世界 に引き戻されてしまうことを恐れている。

だから主人公たちはこの夢から醒めないように、恋愛ゲームをなるべく続けるために「急ぐことはない」し「目的地はまだ」だと思いたいし「これからがいいところ」なのである。
ゆえに「止まるのが怖い」。
つまりこの歌は、ある意味では『夢は叶う手前が幸せ』という、シビアなメッセージも透けて見えるような構図になっていると、僕は思うのです。

並の楽曲ならシメの一文は「あなたとならどこまでも」なんて言って、恋愛は人生をハッピーに彩ると いうポジティブな側面だけを描いて終わってしまうだろう。
travelingはこうした恋するチカラの光と影を、ポップなタッチでありながらも、どこか冷静な眼差しを 持って描いてていると、僕は解釈している。

超有名な宇多田ヒカルの代表作のひとつである今作。
彼女の持つ鋭い恋愛観が垣間見える珠玉の一曲ではないだろうか。

writing

モリュー

バンド活動ではカホンなどのパーカッションを担当。
「kanamori_yuuichi」としてソロでの活動もしばしば。
「やさしさに包まれたなラジオ」のパーソナリティーの一人。

得意なことは掃除。
苦手なことはどうやらプロフィール文を書く事のよう。

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